◆1810年 - 0歳:ポーランドの国土ほぼ中央に位置するジェラゾヴァ・ヴォラ(Żelazowa Wola)に、フランス人の父ニコラ(ポーランド名ミコワイ)、ポーランド人(貴族の末裔)の母ユスティナの間に生まれる
◆1817年 - 7歳:アダルベルト・ジウニーよりピアノを習いはじめる。現存する初めての作品『ポロネーズ ト短調』を作曲、出版される。
◆1818年 - 8歳:ワルシャワではじめて公開演奏
◆1823年 - 12歳:ユゼフ・エルスネル(ワルシャワ音楽院長)より対位法、和声学を学び始める
◆1826年 - 16歳:ワルシャワ音楽院に入学
◆1829年 - コンスタンツィア・グワトコフスカ(声楽)への初恋(ピアノ協奏曲第2番第2楽章に結実)。 ワルシャワ音楽院を首席で卒業、ウィーンで演奏会を開く
◆1830年 - ワルシャワを去りウィーンに向かう。 告別演奏会でピアノ協奏曲第1番を披露、コンスタンツィアも歌を披露
◆1831年 - ウィーンを去りパリへ向かう。 途上、ワルシャワ蜂起失敗の報に接し「革命のエチュード」を作曲したとの伝説。 パリ到着、終生の友となるデルフィナ・ポトツカ夫人と再会
◆1832年 - 2月26日 パリで初の演奏会を開く
◆1835年 - カールスバード(チェコ)で両親と最後の再会。 かつて親交のあったポーランド人貴族ヴォジンスキ伯爵家のマリアとドレスデンにて再会、ワルツを献呈(後に「別れのワルツ」と呼ばれる)
◆1836年 - 26歳:マリアに求婚。 マリ・ダグー伯爵夫人(リストの愛人)のサロンでジョルジュ・サンドを紹介される
◆1837年 - ヴォジンスキ家から婚約が破棄される(マリアからもらったバラの花と手紙の束は彼の死後「わが哀しみ」と書かれた紙包みの中から見つかった)
◆1838年 - サンドとの交際が始まる。 マジョルカ島に半年間結核療養で滞在するも悪化
◆1839年 - 冬はパリ、夏はノアンのサンドの別荘で暮らす生活が始まる(1847年まで)
◆1847年 - 36歳:ジョルジュ・サンドと別れる
◆1848年 - 2月26日 パリでの最後の演奏会。 ロンドンに滞在、ヴィクトリア女王の御前演奏など好評を博す
◆1849年 - 39歳:姉、ルトヴィカと最後の再会。 ポトツカ夫人、病床を見舞い歌う。 10月17日パリで永眠。ペール・ラシェーズ墓地に埋葬される。
しかし、彼の意向により心臓だけはポーランドに持ち帰えられている。
ショパンの病気は一般的には肺結核とされている。ショパンの解剖報告書、死亡診断書は(おそらく)パリ・コミューンか第二次世界大戦により失われたが、関係者の手紙で一部言及されており、それによれば、肺が侵されていたものの、死因までは特定できなかったと言う。この点や、ショパンの症状などから、ショパンの病気は他の疾患(たとえば遺伝病の一種嚢胞性線維症など)ではないかとする説もある。『音楽と病 病歴に見る大作曲家の姿』(ジョン・オシエー著、法政大学出版局、ISBN 4-588-02178-8)でも、嚢胞性線維症が主張されている
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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